映画論その2
『きみにしかきこえない』で考察する映画における携帯電話の新世界
タイトル | きみにしか聞こえない |
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製作年度 | 2007年 |
上映時間 | 107分 |
製作国 |
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「電話という装置」をトピックスとし、行われた授業において、取り上げられた作品に登場した電話は全て固定電話であった。しかし1980年代より急速に成長し、現代の私たちにとってより身近になっているのは、携帯電話である。近年の映画にこの携帯電話が登場するシーンは非常に多く、作中において重要な意味を持つ事も少なくない。
よって今回は携帯電話が映画作品登場することによって生じる効果を、固定電話には無い携帯電話の特性を明らかにすると共に、映画作品『きみにしかきこえない』を題材に分析し、考察していく。
まず、固定電話と携帯電話の大きな違いの一つとして挙げられるのは、携帯電話は場所を選ばない事である。だからこそ携帯電話なのであり固定電話よりも、場所や時を限定せず、相手と連絡を取ることが出来る。
作品は、見知らぬ男女が不思議なおもちゃの携帯電話によって別々の場所で、つながる所から始まる。話が進み、お互いのコミュニケーションが進むにつれ、最終的には携帯電話という端末を持たずして、いつでもとこでも頭の中の携帯電話によって、テレパシーのように、会話が出来るようになる。
携帯電話の機能の利便性のみが残り最終的には携帯電話そのものが作品から姿を消しているのである。携帯電話の「いつでもどこでも」連絡が取れるという概念が無ければ成立しない設定であると考えられ、携帯電話というものがこれほどまで私たちの生活に根付いていなければ、受け入れがたい内容であろう。
また、おもちゃの携帯電話によってつながった男女二人には時空間のずれが生じている。個人情報が氾濫している現代社会では、見知らぬ相手から電話がかかり、また、見知らぬ相手への電話も容易な時代である。そのことで携帯電話の「いつでも、どこでも」という利便性に「誰とでも」というフレーズまで入り込んできている。「いつでも、どこでも、誰とでも」という携帯電話の特徴を持ってすれば、時空間を越えた会話という設定も、とても身近かな、受け入れやすい事となるのであろう。
携帯電話の登場で、普通の高校生が時空間を越え、見知らぬ相手と会話をしていくという、新たな世界観、物語世界の創出が可能であると考える。
携帯電話の特徴として二つ目に挙げられるのは、電波が悪いことである。現代の固定電話は、よほどの災害でもない限り電波状況は変わらず、会話が途切れることは無い。しかし携帯電話は、かなりの研究開発がなされているとはいえ、現在でも建物やトンネルに入ると電波は閉ざされ、会話がしにくくなり、時には途切れてしまう。「いつでも、どこでも、誰とでも」という利便性と共に、いつ途切れるか分からない、急に切れてしまうことが有る、という不安感も併せ持っているのである。
いつでも、どこでも、つながっていたはずの男女の会話が重要なところで途切れてしまう。このような設定は、不安定な若い男女関係の物語を表現するには非常に有効な方法であると考える。作中でも、それは如実に現れている。
初めて相手に会うべく、待ち合わせ場所に向かう二人の会話は、時空間のずれが原因で、互いにめぐり合えないかもしれないという、焦りの感情の頂点で途切れてしまう。電波が不安定な携帯電話によってのみつながっていた二人の唯一の連絡手段が失われ、物語は急展開を迎えるのである。
また女主人公のもう一人の電話相手である、「未来の自分」からの、恋愛上の大切なアドバイスは、電波の乱れによって生じた雑音によってかき消され、何度も確認をしなくてはならなくなる。
携帯電話の電波の乱れという身近な事象によって生じた言葉の確認作業が、重要な物語のキーワードになっていくという設定は、携帯電話が普及したことによってのみ身近に感じられ現実可能であると考えられる。
携帯電話の三つ目の特徴は、移動をしながらの会話が可能な事である。固定電話では不可能であった歩きながらの会話が可能であり、その事によって生まれる新たな映画作品への影響は大きいと考える。
「歩きながら」となると、役者は道を曲がれば、走りもするし、上を向けば、落下物を追うかも知れない。よって役者の視線が定まらないのである。
フランソワ・トリュフォーの『隣の女』では視線や体の向きをある程度固定し、ショット、切り替えしショットで二人が隣にいて話しているように撮影している。しかし今回の作品は、視線が向き合うようなショットのつなぎ方が非常に少なくなっている。
しかし会話による表情の変化や、携帯電話で道案内を受けながら、常に男主人公の指示通りに動く女主人公を、描くことによって携帯電話を介して会話する役者を演出し、視線だけではなく、より多様な表現がしやすくなっていると考える。
また物理的な距離だけではなく、役者の動きと携帯電話を融合させ事で、こころの距離も表現しやすくなった。
待ち合わせの二人の物理的な距離が近づいている間に積もる、相手への思いも直接携帯電話を通じて話すことが出来、今までには無かった感情の爆発も可能となっているのである。
作中では相手を思うあまり、直前になって「会いたくなくなった。」と女主人公が男に告げる事で、ストーリーには緊張感が呼び起こされている。また交通渋滞によって待ち合わせに遅れそうになり、電話を介した謝罪の台詞と共に映し出される主人公の不安げな表情は、臨場感をも表現している。これらの設定は過去の映画作品では見られにくかった設定であると考える。
携帯電話が発達することで、私たちの生活は大きく変わった。しかし、その目覚しい技術革新に社会がいついて行けていない事もまた事実である。だからこそ携帯電話が映画に及ぼす影響も未知数である。今回は携帯電話の上記した三つの特徴と「いつでも、どこでも、だれとでも」というキーワードが及ぼす映画作品への影響についてのみ考察したが、まだまだ研究の余地があり興味深い分野である。
〈参考文献〉
『現代用語の基礎知識2004』2004年1月1日発行。